理想の政策とは?

以前に書いた記事(2018年11月4日)から、すっかり間が空いてしまいました。

さきの記事では「現状の政策については、ここまでです。次回以降は、理想の政策について考えてゆきたいと思います。」と書きました。

今回は、いよいよ本論に入ります。

 

まず、具体的な話として、市長や市議会議員を決めるポイントは何でしょう?

1、人柄で選ぶ
 この人なら、市政を任せられる、うまくやってくれる、という人を選ぶ。

2、政策で選ぶ
 具体的な政策が挙げられており、それと自分の意見が合致している、という人を選ぶ。

 理想はこれだと思いますが、なかなかすべての論点で同じ意見の人って居ないものです。
 論点は、たとえば、以下のように多様です。
 ・原発推進 ⇔ 原発反対
 ・憲法九条は堅持すべき ⇔ 改憲して自衛隊を明記すべき
 ・社会保障充実を優先すべき ⇔ 国の財政健全化を優先すべき

 一般論で言えば、個々の論点を明確にしすぎると支持を得られる人が減るので、候補者は敢えて争点を曖昧にすることがあります。酷い例では、選挙運動の時は、より一般受けして票が多く取れる公約を掲げておきながら、当選したら即それを翻す人も多いというのが現実でしょう。

3、期待で選ぶ
 これはやや説明が必要ですね。
 たとえば、直接的な政策ではないものの、政策を決定するプロセスを明確に挙げている、という人を選ぶ場合。具体的には、昨年の西宮市長選挙で当選された石井登志郎さんなどがこれに相当するように思います。石井さんはその市長所信表明のなかで、次のように述べています。

「組織化されにくい個人の声に耳を傾ける、ということです。
 …
 1人の市長、40人の議員、3800人の職員だけでなく、49万市民の英知を広く集めることができるような仕組みを、様々な形で導入してまいりたいと思います。」
https://www.nishi.or.jp/shisei/mayor/shiseihoshin.html

 民主主義の実現、という意味では、上記のような仕組みを導入し、市民が中心となる意思決定のプロセスを構築することそのものが、立派な具体政策だと言えるでしょう。

 


 さて、実際はこれらの3つの要素が入り混じっていて、どの要素を重視するか、は有権者によって異なるかと思います。

 ところで、市政と国政は違う、とか、国政を市政に持ち込むべきではない、という意見をよく聞きます。けれどそれは偏見でしょう。たとえば現にこの清瀬には大和田基地通信所がありますが、この存在は日米安保の在り方に大きく関わっており、かつ、この基地の存在は有事の折にこの清瀬に住む人々に脅威となる懸念がありますし、また、清瀬では素晴らしい「平和宣言」が出されていますが、これをより実効性のあるものとするには、憲法第九条や自衛隊をどう考えるか、「国を守る」とはどういうことか、について、しっかりとした骨格を持たなければなりません。

 財政についても、然りです。社会保障にどれだけの予算を割り当てるか、というのはまさに市政が決める重要課題であると同時に、国の方針とも密接に結びついています。

 「市政から国政に働きかけることは非常に困難である」のは半分は事実です。が、ひとつの市では無力でも、同じ意見の市町村が集まれば、力となるでしょう。(が、それはまた別の機会に論じようと思います。)

 ということで清瀬を含む統一地方選は本年の4月、もうすぐです。4月と言えば、新元号が発表される時期。この時代の変わり目に、素敵な方向へ、舵を切りたいものです。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんのこと

昨日(1月26日)、池田いづみさんをゲストとして、下宿市民センターにてタウンミーティングを行いました。タウンミーティングの内容については、また別途報告する予定なので、ここでは、池田いづみさんのお話に出てきたベアテ・シロタ・ゴードンさんことを書きたいと思います。ベアテさんは戦後すぐGHQ民政局に民間人要員として採用され、GHQによる憲法草案の主に人権条項の起草に関わった女性です。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんと池田いづみさん

(池田さんはベアテさんが2007年に来日したおり、彼女と親密に話をする機会を持たれたそうです。ベアテさんが亡くなられた今となっては貴重な、そのお話の内容については、機会があれば別途、記事にしたいと思います。)

私(本サイトの中の人のひとり)は数年前、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの『1945年のクリスマス―日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』を読み、とても感銘を受けました。本書から少し引用します。

“私は、世界中の女性が手をつなげば、平和な世の中にできるはずだと思っている。地球上の半分は女性なのだから。その女性たちのパワーを集めることが大事だと思う。”
“戦争の原因になっているのは、宗教や領土、政治、経済と様々な理由があるが、なぜ皆「違い」を強調するのだろうか。どこの国の人でも共通点のほうがずっと多いのに。そのことを実感としてわかっているのは、女性だと思う。”

さて、本書に拠れば、GHQの初期草案には、

  「すべての自然人は、法の前に平等である。」

と、あったそうです。実際の日本国憲法第十四条では、ここは、

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

となっているのですが、「国民」と「自然人」では、何かが違う。私は元の「自然人」のほうが良かったのではないかと、個人的には思います。
「だって、日本国憲法なんだから当たり前じゃん。」
と思われるかもしれませんが、「国民」という言葉使いは自ずと国を前提としてしまいます。その言葉が選ばれた時点で主従関係が成立することとなり、その回路からは自ずと「お国のために」という考え方が導き出され、それを拒否する道が閉ざされてしまうように思われるのです。

それはさておき、ベアテさんが担当した草案の箇所に話題を絞ると、憲法第二十四条には、彼女の記述した夫婦平等、男女平等、といった草案の内容が活かされた条文となっています。

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

また、憲法第二十七条

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。

この第3項も、ベアテさんの草案が色濃く反映された箇所だそうです。

『1945年のクリスマス』の内容は、GHQ草案に関する部分が全体の3分の1程度を占めるのですが、自伝でもあり、ひとりの女性が辿った数奇な人生という読み方をしても面白いと思います。ご興味があれば、是非、読んでみてください。私は単行本で読んだのですが、現在でも朝日文庫から出ています。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんと池田いづみさん